「クリスマス」はどこなのか



私はサイクリングが好きなので、休みの日は常に一日中自転車を乗り回しています。といっても、スピードを出して遠くまで行くような乗り方はしていません。街の中をずっと廻り続けて、散歩の延長線のような走り方です

そうすると、街の変化にはいち早く気付くことになります。最近は、駅前へ出るとリースや人形などを見かけることが多く、明確にクリスマスの空気を受け取ることができます。

しかし、それはあくまでも駅前だけの話。市街地から少し離れて住宅街へ来て仕舞えば、そこにあるのは何でもない普段の日常で、クリスマスなんてどこに行ったのやら、といった具合です

もちろん、住宅街にも装飾を施している家はちらほら見かけます。しかし、そこでは私が普段見てきている日常の成分の方が圧倒的に強く、クリスマスの空気が負けてしまうわけです

私は不意に、この「私が感じ取ったクリスマスの空気」というのが日本式のお祭りに近い性質を持っていることに気付きました

大勢で集まって騒ぎ立てることで不思議な熱気が生まれ、浮き立つような雰囲気になったのを神様が来て場に力を授けてくれたおかげだと、昔の日本人は捉えたそうです。今の日本人はそういった存在の実在性こそ信じなくなったものの、行動原理の根底にはその価値観が根強く残っています

本家である西洋人がクリスマスをどう扱うのは良く知りませんが、信仰心による裏打ちがあるのなら、彼はクリスマスにどこへ行っても「彼らにとってのクリスマスの空気」が消えることはないのではないでしょうか。一方日本人である私は、祭りの状態となっている駅前を離れてしまえばクリスマスの空気を感じません。西洋人は祭りを自らの心の内側から捉え、日本人は祭りを外部からくるものとして捉えるわけです

結局、クリスマスというキリスト教に起源を持つ舶来の文化を前にしても、日本人である私は日本人の感性でそれを捉えます。そこにあるのは「クリスマス」という名の神様を呼ぶ日本式のお祭りなのです

0コメント

  • 1000 / 1000