パラノイアのぼやき

 今回の記事は思った事をただひたすら断章形式で書いていくものなので、少々読みにくいです。あらかじめご了承下さい



 理想を事実であるかのように語るのは、民衆が持つ問題解決への意欲を減退させるものであり、むしろ理想的な未来から遠ざかる害悪な行為である。例えば努力しない人ほど得をする世の中で努力は報われると子供に教えればその子供は奴隷になる。悪が裁かれない世の中で悪は必ず裁かれると教えれば悪党にとって実に都合のいいカモになる。そこに残酷な現実があるのなら、それを残酷に語るのが真に善良な表現だ。



 自分の意思で始めた人生ならばそれがどれだけ面倒なものでも仕方ないと諦めがつくが、親の一存で存在する事を決められ、それでいて生きる事の面倒さに耐えろ、死のうとすれば苦痛が伴うと言われても全く納得ができない。
 生きる権利とは、死ぬ権利と対を成してこそ意味があるのだ。苦痛なく死ぬ権利がない状態で生きる権利があると言われても、それは権利ではない。義務だ。二度と生存権などという胸糞悪い言葉は聞きたくない。



 偽りのない真実のみを見たいなら、信じたい事は極力信じないようにしてバランスを取ると良い。



 仮に創造神なるものが存在するとしたら、そいつが人類に対して善意など持っていない事はほぼ確実である。でなければこんな偽善と悪意に満ちた者たちが幅を効かせる箱庭を放置するはずがあるまい。ノアの方舟の話は嘘であろう。神に善意があったならば、これを一度で済ませるだろうか? 
 もしくは、神は、創造した事に気付いてすらいないかもしれない。

 

 少子化対策はやめるべきだ。これからはあらゆる産業が自動化されて人間が必要なくなる時代なのだから、無駄に多く子孫を残しても良い事は何もない。人手不足は人を増やして解決するのではなく、新しいテクノロジーで解決すべきだ。



 人が生きる事に意味などない証明なら何通りでも存在するが、人が生きる事に意味を見出そうと思えばそこには必ず嘘が必要になる。この嘘はこの世の99%を占める「信じたいものを信じる人」を幸福に導く事が可能なものだが、こうして幸福となった人々は残り1%の「信じる事に興味がない人」を圧迫する。



 分かりやすい悪と分かりやすい正義が虚構である確率は必ず50%を越える。



 生物という形は、物質的に不正解である。この宇宙全体の大きな流れとして、エネルギーの均一拡散と状態の安定化というものがある(エントロピーの増大)。形が残るというのは、エネルギー的に安定した事による結果に過ぎない。しかしながら生物は、エネルギーをひたすら消費して形を保つという、世の定理に反する横着を行なった。しかしそうしていられる時間も既に安定している物質と比較したら一瞬と言って良いほどに短いだろう。エネルギーの拡散が進めば分子間の結合は保てなくなる。未来は不安定な生物ではなく、安定した非生物によって築かれるのだ。生物にとって、非常に大きな目で見た世界の流れと調和して自然体でいる方法とは、生物という形への執着をさっさと諦めて滅びを受け入れる事だけだ。



 仮に絶対的な正義と悪が実在するとして考えよう。手段を厭わずに他者を潰して自らの利益を積み上げる「悪の行動」は、続けるほどに他者の痛みを目の当たりにする機会が増えていく。それを無視して更に奪い続けるためには冷徹で強靭な精神力が必要となる。
 一方で倫理的な「正義の行動」は分かりやすくイメージが良いため、頭の悪い人はほぼ例外なく正義の側につく。つまり、悪の側には頭が良くて精神力の強い精鋭たちが集まり、正義の側には頭の悪い烏合の衆が集まる。
 よって、正義の悪に対する勝率はほぼゼロである。なんなら正義は評価すらろくにされない。えげつない手段で生き残った者たちにのみ歴史を語る権利が与えられ、彼らは自らの手ででっち上げた歴史の中で正義を名乗る。



 人間が「人間のエゴ」から逃れる事は不可能である。よって人間のエゴを非難する全ての言論はそれを放つ者が人間である以上完全に無意味なものである。



 この無駄の多い世界においては、無駄な事をやめる事は時としてすべき事をやる事以上の生産性を持つ。



 生物にとって存在しない事以上に良い状態は無いはずだ。エネルギーを集めて自らの形を保つという生物のあり方はエントロピーの増大という世界全体の流れに逆行している。



 急がば回れ。貴方が他人に与える影響を想定し得る最も良い形にしたいならば、エゴイストであれ。そして他人がエゴイストとして振る舞う権利を尊重するべし。
 善意ある愚か者となる事なかれ。愚か者の善意がこの世のどんな悪意よりも胸糞悪い事を忘れるな。
 例えば貴方の愛する妻が不倫をしたという噂が流れたとする。そして貴方はその噂が事実無根である事を知っていたとする。もしここで、第三者が"貴方のためを思って"貴方の愛する妻を殺したとしたら、どう思うだろうか。これが、愚か者の善意だ。
 善意や正義感は自分が正義だと確信してしまう傲慢さによって生まれる。人が自らの正義を完璧に立証するに足る能力を得る事などほとんどあり得ないだろう。貴方にその能力があるとでも思っているのならば貴方は反吐が出るほどの傲慢さに脳を支配された状態である。ここまで言われてもまだ自分には善意があると言い張りたいのなら、人に迷惑をかける前にさっさとその"善意"で死んでおくべきだ。



 鬱とは、真実に至ってしまう現象なのではないだろうか。綺麗事なしの真実を知った上で生きていく事を無理せず素直にかつ自然体で前向きに捉えられた人の事例を私は全く知らない。
 鬱病を診断された人の言葉を聞いていて感じられるのは、それは病気というより、高度に精製された純度の高い真実の情報だという事だ。もちろん実生活に支障をきたすのだから病気とせざるを得ないだろうが、ではそれを治療するというのはどういう事なのか。「真実を治療する」という話にならないだろうか?
 真実はねじ曲げられない。よって鬱の治療とは、いかに幸せな嘘を信じさせ、患者がそれを嘘と気づかないようにサポートするかという話になる。実際、心理療法には人を洗脳する方法が多用されるが、嘘を頭にねじ込むのだから洗脳のような無茶な方法を取らざるを得ないのは当たり前だ。
 だが、これは本当に治療になっているのだろうか? 患者たちは本当に嘘を信じ、幸福になれるのだろうか? 私には、心理療法に携わる者たちが人間の直感を甘くみているようにしか思えない。
 人間には、本能的に嘘と真実を見分ける直感があるのではないか? どれだけ高度な洗脳テクニックで幸せな嘘を鬱病患者に教え込んでも、深層心理ではその嘘に気づいてしまうのではないだろうか?
 実際、精神病院の治療から帰ってきたり、病んだ末に幸せな事を言う宗教に入信し、自分は幸せになったと言う人たちを見ていると、彼らが治療によって精神的に健康になったようには全く思えない。口ではポジティブな事を言いつつ、それが過剰であるというか、ポジティブな事を言わなくてはならない強迫観念に取り憑かれただけのように見えると表現したら良いのか。とにかく振る舞い方が全体的に不自然で、どこかぎこちないのだ。
 これは、ネガティブな現実主義者としての深層心理にポジティブで頭お花畑な馬鹿の表層意識を被せた精神的なキメラになってしまったためなのではないだろうか。こうなってしまうのであれば、むしろネガティブな方向であっても言動に一貫性があり、細かい思考があった治療前の方が幾分か健康的であったかのように思える事すらある。
 こうした人たちを見ていると、精神療法とはまるで痩せた土地に化学肥料を撒いてさらに地力を下げてしまう共産国家の農法のように、問題をより根深いものにしてしまう行為なのではないかと感じざるを得ない。



私が唯一尊敬する人物:ヨシフ・スターリン
理由:共産主義には全く賛同できないし、彼が起こした結果は客観的に見れば万死に値する罪である。政治家としては絶望的に無能な人物だが、彼の私生活における態度に関しては非常に奥が深い。人を一切信頼せず、ひたすら他人を制圧する事で自らの環境を耕す彼の哲学は、一個人として大いに参考になる。「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」という彼の言葉は人間という残念な生き物の本質を的確に指摘した上でその扱い方を示しており、私にとっては座右の銘である。



 最近は息を吸う事もめんどくさくなってきた。とはいえ、消費する酸素の量が少なくなる生活をしていると寿命が長くなってしまうらしく、私はこの息を吸うことよりもっとめんどくさい死ぬまでの時間を長くしたくないから、めんどくさくても息を吸う回数を減らそうとは思わない。



 ネガティブな発言の多い人とは関わらない方がいいとよく言われているが、本当にそうだろうか? 私は、事実を捻じ曲げてでもポジティブな発言をする事にこだわる人を数多く見てきた。そうした人間の現実と乖離した言葉に騙されて痛い目を見る人も数多く見てきた。しかし逆にネガティブな人の言葉に嘘をみつけた事は少ない。
 こうなる理由は簡単だ。人がポジティブな嘘をつく上での動機付けが、ネガティブな嘘をつく上での動機付けよりも圧倒的に強いためだ。人が嘘をつくのは基本的に、そうする事で明確に利益が得られる時である。嘘をつく事自体リスクが伴うのだから、そのリスク以上の利益があると判断した場合のみ人は嘘をつくのである。
 これを踏まえてポジティブな嘘というものを見てみよう。まず、ポジティブな嘘をつくリスクはそうでない嘘と比較して大幅に低い。人は見たいものを見て信じたいものを信じるとユリウス・カエサルは言い残しているが、実際人はそれが事実かどうかに関わらずポジティブな言葉を聞きたがる。ネガティブな事実を言う者より、ポジティブな嘘をつく者の方が群衆からはずっと受け入れられやすいのだ。そうした群衆の心理によって、ポジティブな言葉に対するファクトチェックが怠られる事例は多い。結果、ポジティブな嘘は、ネガティブな嘘の何倍もバレにくい、すなわち嘘をつくリスクが低くなるのである。
 これは更に言い換えれば嘘をつく事の敷居が低くなるという事だ。潔白で正直とされる人でもポジティブな嘘に限っては平然と垂れ流す事がある。なんなら彼らは嘘をついているという自覚すら無い事もある。
 また、ポジティブな嘘はネガティブな嘘と比較して利幅も大きい。例えばネットサイトの運営ならポジティブな内容の方が多くの広告収入が手に入る。トップブログの内容が執筆者の実態と大きく乖離した華やかな内容になりやすいのはこのためだろう。
 こうした事や踏まえると、頭御花畑な人よりはネガティブな発言が多い人の方が嘘をつく確率が低く信用できるため、人間関係を構築する上では優先すべきと言えるのではないか。



 全ての個人とその思想を完全に平等に扱う方法はただ一つ。皆等しく○ぬ事である。米国が保有する核兵器を全てイエローストーン公園に集め、一気に起爆して地球をかち割れば良いのだ。



 「僕らはみんな生きている」で始まり「生きているんだ友達なんだ」で終わる歌がある。私はこの「生き物同士は友達」という考えが全く理解できない。食うか食われるか、生態系における立場を取るか取られるかという生物のシステムから考えると、生物同士は友達などではなく争い合い潰し合う憎き敵同士のようにしか思えないのだ。もし万が一ブタがこの歌の意味を理解するような事があったとしたら「いや、友達だと思ってるならまず食べるのやめてくれないかな」と返すだろう。
 しかし、他の動物に捕食される機会がほとんどない生物界の圧倒的強者たる人類の視点である事を踏まえればこの歌詞は実に的確に現実を描写していると言える。人類からしてみれば、いつ人類に捕食されるか分からない者たちの視点など知った事では無いのだ。生物は全て友達などという考えは、脅威を身近に感じない恵まれた特権階級の戯言なのである。



 相手を尊重したいなら、そもそも自分からその相手に関わろうとはしないのが唯一にして最も賢明な行動である。人に関わるという事は、同時に相手に影響を与えるという事である。相手に影響を与えれば、少なからず相手を変化させる事になる。それを、自分からやるというのはどういう事か。相手の意思に関係なく、自分の意思で相手を変化させる。これは相手を尊重していないという事である。



 私は基本的に何もしたくない。だから仕事がない日はほぼ一日中昼寝をしている。以前はそれで夢を見るのも嫌で昼寝することを躊躇っていたものだが、最近は覚醒した状態で時間を過ごすよりは夢を見た方が幾分かマシである事に気付いた。というか、夢の中の出来事に対して、それが嫌だと感じるのは目が覚めてから夢を思い出している時の私であって、夢の中では特にそれが嫌だといったような感情はない事が分かってきたのである。
 夢の中の私は、常に必死で焦っている。何故か濁流の激しい川に橋をかけようとしていたり、壊れかけの車を猛スピードで運転していたり、暴徒たちの中で要求が通らずヤケを起こして破壊活動をしていたり、、、とにかく、難易度の高い事を必死にしようてしている夢ばかり見る。その必死さが、嫌なのだ。実生活でも、私は必死にならざるを得ない状況だけはどんな対価を払ってでも回避している。
 私が必死になる事を拒絶する理由は大きく分けて二つある。まず一つ目の理由として挙げられるのは、私が極度のめんどくさがりであるという点だ。私は自らの労力を供出する事が心底嫌いなのだ。常にありとあらゆる事に対して、なぜわざわざそんな事をしなきゃいけないのか、と思っている。だいたいこの人生さえも、好きで始めたわけではない上に、生きるための最低限の労力を惜しめば苦痛が降り注ぐという生命のシステムに理不尽を感じている。安楽死という一切の苦痛なく死ねる手段があるのだから、日本で合法化されたらさっさと死んで何もしなくていい非生物の状態に移行したいものだ。
 そしてもう一つの理由が、必死になると肉体が甚大な健康被害を受けるという点だ。私は必死になると、全身の至る所に不調が出る。まずストレスで顔や首にニキビができ始める。そして常に心拍数が高くなり、体温が激しく上がったり下がったりを繰り返すようになる。胸は痛み、吐き気がするようになり、食事は喉を通らなくなる。口の唾液は泡立ち、この泡を飲んでしまうと吐き気がさらに酷くなるため、一定時間おきに唾を吐かざるをえなくなる。最終的には腹を壊し、便に血や粘液が混ざるようになる。
 この二つ目の理由に関しては、なぜ私が夢の中では必死になっても嫌だと感じていないのか、という問題を解く鍵になりそうだ。夢は脳が見ている幻覚に過ぎない。そこに実際の肉体の動きは伴っていない。よって、夢の中では肉体が受ける健康被害などという概念はないのだ。
 私はもしかすると必死になるのが嫌なのではなく、健康被害が嫌なだけなのかもしれない。労力を供出するのが嫌なのも、労力をかける事自体がそもそもに嫌なのではなく、肉体から体力が減る事が嫌なのかもしれない。であれば、減る体力もなく健康被害を受ける肉体も無ければ私は必死になっても嫌と感じないのかもしれない。
 肉体を捨てて脳だけになれば、私は必死になる事も、生きることも肯定的に捉えられるのだろうか。もしそうならば、肉体は邪魔だ。水槽の脳ではないが、人間の脳を機械に繋ぎ、意識をコンピュータに移す研究というのは既に進められている。安楽死がどうしてもできないならばそちらを試してみても良いかもしれない。昨年内閣府が発表した「ムーンショット目標」には大いに期待が抱けそうだ。



 光は光源なしに存在できない。しかし闇は何もなくてもそこにある。いや、何もない事自体が闇なのだ。よって光が闇を駆逐する事などあり得ない。むしろあらゆる光源に寿命があると推定される以上、光が消え、闇が残る未来はほぼ確定していると言える。
 いい加減光で闇を駆逐しようなどといった悪あがきはやめるべきだ。運命を受け入れろ。そもそも闇は悪いものなのか? エネルギー的に安定した虚空は優しさそのものであると考えるのは私だけか?



 科学が宗教に対して圧倒的に優れている点は、非常に高い自己改善作用を持っている点である。宗教は「信じる心」が何よりも大事であるため、そこへ疑念を抱いたり、新たに検証を行おうとすれば圧倒的な数の暴力で排除されてしまう。よって、一度聖書を書いて仕舞えばその内容と事実の乖離が縮まる事はほとんどない。新しい宗教を作るという手もなくはないが、これをやると戦争が起きて多大な犠牲を産む事となる。
 それに対し、科学は常に再検証と間違いの訂正を繰り返しており、これを積極的に推奨している。もちろんその検証方法に対する検証や、さらにその検証も怠らない。このため、基本的には時を経るごとに科学の通説と事実の乖離は縮まっていく。科学も宗教の一種という人がいるが、これは科学の本質を見誤っている。現代の科学の通説を盲信する人がいればそれは宗教的な態度と言えるが、そこに科学はない。科学とは、学説の形成に対する姿勢である。宗教で例えるなら聖書に相当するものを書く人と読む人に積極的に再検証を求め、加筆させ続けるものなのである。



 責任感を持つというのは、責任の取れない事を最初からやらないように自制するという事である。現実問題として完全に責任を取りきれるはずもない事を既にやってから責任を取る努力を試みるというのは何の意味もない。



 主張に物語性を持たせる手合いには警戒を持って接するべきである。情に訴えて思考を乗っ取り、論理の破綻に気付かせないようにする意図を持っている場合がほとんどだ。ナイラ証言がまさにその典型例である。



 自分が他者に利益を与えられる程度の能力を有した存在であると勘違いした自惚れ野郎どもが目に余る。実利で考えればわざわざ相手してやる手間の方が重く付いてむしろマイナスとなるような事をしてきた挙句、恩着せがましく振る舞うその姿は実に胸糞悪い。どうしても、その小さな脳みそで他者の役に立ちたいのなら、毎日休まず働いて、その稼いだ金を全部寄付したらいい。その程度の事をする覚悟もない奴が善人ぶるな。これができないのならひたすら自分のための事だけをしていた方がまだ気持ち悪さが無い分マシだろう。何度も繰り返し言うが、善意は自らを正しいと信じて疑わない危険な自信過剰さ、すなわち傲慢さによって生まれるのである。
 


 クローン技術やデザインベビーの話が出てくるたびに「生命の冒涜だ」とか「神への挑戦だ」とか言う人が出てくる。しかし、もし仮に神が生命操作の権限を持っているとするならば、なぜ同じ理屈でその神が倫理上許されるのか語る者はいない。
 いや、そもそも「生命を作る行為」自体が問題ではないか? 生まれてくる生命に生まれて来させる事の同意など取れるはずがないのだ。



 正義感というものは、自らが間違っている可能性を考慮しない傲慢さによって生まれる。正義の本質は傲慢である。「正義感が暴走する」というのは、傲慢ゆえに暴走しているのであって、何ら不思議な出来事でもなく当然の結果である。正義感による行動など、人間にとっては永遠に「早すぎる」のである。
 


 悪とは、正義に失望して諦めた者の開き直りである。しかし悪より胸糞悪い正義などこの世には腐るほどある。というか悪として後世に語り継がれる者のほとんどは、生前自らを正義と考えて動いていたであろう事が歴史の記録からも推測できる。開き直って自らを悪と位置付ける本当の悪は非常に少数だ。正義も悪も、他者からしてみればろくな存在でない事は確かだろう。どちらにもならずに済む選択肢を考えると、他者と関わらない孤独しか私には思い浮かばない。



 差別を無くすことは簡単だ。差別する人とされる人が接触する必要のない世界にすれば良いのである。人々の意識を変えて差別を無くしたいなどと言う奴は馬鹿だ。「差別しないように」と意識した時点で既に差別が存在している。少しでも頭の片隅にそれがあれば必ずその差別意識は行動に出る。人間という愚かな生き物の性質上、対面した上で差別しない事は絶対に不可能であるため、そもそも対面すべきでない。最新のテクノロジーを用いてインフラを構築すれば、人が人と一切触れる事なく満足な生活をする事は可能である。その方が感染症対策の観点からも宜しいだろう。非接触型社会の推進を私は全力で支持する。



 無知ゆえに人に迷惑をかける人間に事実を叩き込んでやるのは推奨すべき行為であり、これを意見の押し付けとは言わない。寛容さを持ち、他者の意見を尊重する事は確かに重要だが、反論に対して自らの主張を論理的に説明して返す事が出来なかった者が自己弁護のためにこれを主張するのは愚の骨頂である。説明が出来ないからとりあえず肯定してくれとストレートに言っているようなものだ。こうした人間を見ると鉛玉で知性を補充してやりたくなる。墓標に載せるフレーズは「沈黙こそが彼の持てる最大の知性」なんかが相応しい。



 苦痛に対して何か美談をこじつけ、そうでも考えなければやってられないというものがある。気持ちは分かる。しかしそのような事をすると、美談はいずれ盲信となる。そしていざ苦痛を無くせる手段が出現した時に、逆にその盲信を守るために苦痛を無くす手段を拒否するようになってしまう人がいる。
 個人としてそのような選択をするならば、それは自己責任だ。しかし他人も巻き込んで苦痛を無くす手段を取らせないのであれば、これは迷惑でしか無い。そしてこのような事態を防ぐためには、そもそも痩せ我慢の美談を作らない事が必要なのである。恵まれない環境においては、それをそのまま貧しく描き、汚い世の中においては汚く描く。正確に描写する事こそが長い目で見れば人類の発展に貢献する事になるのだ。今気を紛らわして楽になるために嘘の美談を作れば、それは遠い未来の人類を苦しめる事となる。



 楽に無難に幸福に生きて、語らずに死ぬのが理想である。語らずにはいられないような人生というのには必ず無駄に苦痛が伴う。なんなら苦痛とトラウマを誤魔化すために無理に美化して自らの人生を語る者も多い。よって、人の口で語られて聞くことがある様な他人の人生というものはそのほとんどが実際にはハズレの人生である。こうしたものを目標に捉える事は、幸福を第一と考えるのであれば不毛な行為である。私もハズレの人生と思っているからこうして文章にせざるを得なくなっているのだ。



 あまり高度にテクノロジーが発展すると、人は他人に気を遣わなくても生きられるようになり、皆が冷酷になって人間的な温かみが無くなると言う人がいる。しかし、そうなるのならばそれは、人々が欲求の根底でそれを望んでいるからに他ならない。人間にとって、他者から冷たくされる可能性が上がる事よりも、自分が他人に気を遣わなくて済む事の方が重要だからこそそうした結果に誘われるのだ。
 高度なテクノロジーで満たされた世界であれば、関わって不快になった相手とは二度と関わらない様に自らの環境をセッティングする事も可能だ。それで誰とも関われなくなったのならば、その人にとっての理想的な他人をホログラムで用意する事も可能になるだろう。こうした世界において、一体何がこの環境に生きる人々にとって不都合となると言うのか。そうした環境にない私たちが客観的に見てどうこうと言う話ではない。高度なテクノロジーに囲まれた人間の主観以外でこれを語るべきではない。
 結局、人間的な温かみなどと言うものは圧倒的なテクノロジーがもたらす恵みが既に存在する世界においては全くもってして無価値であり、これが無くなる事を価値そのものであるテクノロジーへの批判として使うのは間違っている。



 私は反出生主義者である。よって、子孫を残す行為に対しては例外なく反対である。しかし、テクノロジーの発展に対しては一転して例外なく賛成の立場を取る。一見矛盾しているように思えるかもしれないが、手段と目的を分けて考えればこれは矛盾していない。今私が反出生主義者を主張しても、子孫繁栄を否定するという発想がない固定観念に取り憑かれたこの世の多数派は納得しないだろうし話も聞かないだろう。しかし、テクノロジーが高度に発展して人間の望むものが全て手に入り、物を考える時間と余裕も無限大となる世界が実現すれば、いずれ人間は自身の欲求の根底に自信の消滅を願う構造があり、生まれてこない事自体が理想であった事に気付きやすくなるはずだ。そうなれば反出生主義がより一般的なものとなり、人類に子孫を残す事をやめさせたいという私の目的も達成される。
 私が最も敵対視しているのは、反出生主義を否定した上でテクノロジーの発展も否定し、今のままの世の中を続けさせる事で人が生まれて来なくて済む事を根本的に望んでいる事に気付かないように誤魔化し続け、自らの「生まれてきた事や生きてきた事に意味があった事にしたい」という勝手な気持ちに基づいて出生の被害者を量産し続ける人々である。
 なお、人が生きる事や生まれてきた事に意味がない事を受け入れられないのは、物を冷静かつ緻密に分析できなかった時代に形成された「この世に存在するあらゆるものには意味があるはずだ」という宗教的な固定観念がもたらす認知ギャップや、これを受け入れるとこれまで生きる事に費やした投資が無駄だった事を認める事になるため、それが嫌だというコンコルド効果によるものである。こうした心理作用が多くの人にとって害をなす事は実証済みである。



 愛で腹は膨れねぇんだよ。実利について語る場に感情での対応策を持ち出すな。



 謙虚さとは最も建設的な美徳である。同時に最も消極的でもあるが、あまり積極性を煽るようなもの、とりわけ「正義」などというものは一つでも間違いを孕めば破滅を招くため、正義ではなく謙虚さを持つ事が最良である。正義感と謙虚さは両立しない



 生物であるという事は、物質として不幸であるという事だ。物質として不幸である状態というのは、よりエネルギーが低い安定した状態に向かうという自然の摂理に従えない状態である。



 人の欲は満たされる事なく無限に膨れるというが、欲が膨れているのではなく人間の不安が埋めようのない底なし沼なのだと私は思う。これを欲が膨れていると捉えるのは錯覚ではないか?



 私はよく、指で髪をいじる。恐らく多動症の症状なのだが、多くの人は私のこの癖について「気持ち悪いからやめろ」と言ってくる。しかし、私からしてみれば、実害が何も出ていないのにその程度の事を気にして他人の行動を制限しようと思う人の方がずっと気持ち悪く、消えて欲しいと思う次第である。
 このように、人間は自分と異なる感性の人物を見かけると、お互いにその相手の自分とは異なる部分について「気持ち悪い」と感じる性質が備わっている。故に「多様性」というのは軋轢を生んでしまう。
 私は、同じ感性の人間しか生まれてこない世の中にするべきだと思っている。そのためには、まず人間の発生過程を科学施設で行うようにし、全ての個体の遺伝子を均一化するべきである。そしてその生育環境もコンピュータとホログラムを用いて完璧に均一化すべきである。



 個人のトラブルにおいて、弱者の立場であっても筋の通った主張を持っていれば尊重してもらえるのは、国家が司法を使って全ての国民に平等に圧力をかけているためである(社会契約説)。この状態を法の下の平等というわけだが、法自体が力を持っているわけではない点に留意するべきである。
 外交において条約の一方的な破棄というのは決して珍しくないことだ。これは、全ての国家に平等に圧力をかける存在がなく、実質的にはそれぞれの国家が力関係の最上位となってしまっているためである。力関係の最上位に存在する者は、道理や筋道など無視できてしまう。他者に道理を求められるのは、お互いに一定の力の下に存在する者同士である時だけだ。
 ならば、何を力関係の最上位とすれば良いのだろうか? これは、コンピュータだと私は思う。コンピュータには人間のようなエゴはないため、計算上正しい判断しかしない。人間が道理を無視するのはエゴのためだが、コンピュータなら道理や法を打ち込んでおけば必ずその通りに動く。プログラミングした人のエゴが入るというのなら、そのソースコードを誰でも閲覧可能なものにし、常に議論の対象に挙げておけばいいだろう。
 また特に、コンピュータには親戚も友人もいないという点が非常に強い。何に対しても人間のような無駄な思い入れがないため、全ての人間や事柄をフラットに扱うことができる。私は、コンピュータが人間を支配する時代が到来すべきだと思っている。

 

 キラキラネームは激しく批判されているが、地頭の悪い親から引き継いだ頭の回線が少なくなる遺伝子のせいでどれだけ努力しても人生の質が周りより低い所で頭打ちになる人が出てくる事について世間が何も言わない事に私は納得できない。頭の性能は、名前以上に一生を左右するじゃないか。
 私は、子孫を残す事を免許制にするか、あるいは遺伝子操作でそもそも同じ形質の人間しか生まれてこない世の中にするべきだと思っている。



 罪の意識がないというのは、罪のある場所が意識ではないということだ。ではどこに罪があるのだろうか? これは、人を苦しめている事に気付けないその感性に罪があるのである。更に深めると、どのような感性を持っているかというのはその個人の存在の定義に直結する。つまり存在に罪があると言える。存在自体が罪ということだ。
 だからよく「罪の意識はなかった」などと免罪符のように言う人いるが、これは逆効果だ。これは、自分の存在自体が罪であると認める行為になる。



 「人間らしさ」の良い側面しか見ていない人が多いことに、私は強い違和感を覚える。
人間が人間らしいということは、そんなに良いことなのだろうか? 例えば、正義感や感情は人間らしさの一つだが、それを持って行動した集団によって年間数百万人が理不尽に殺されている現状がある。そしてそのうちのいくらかは拷問を受けている。つまり「人間らしさ」には数百万の苦しみが含まれるわけだ。人間らしさなんて、クソ食らえと思わないだろうか?



 よく、自殺したい人に「あなたが死んだら私が悲しむ」みたいなことを言う人がいるが、これは完全に論点がずれている。自殺したい人は自分の人生が苦痛だから自殺したいわけで、それで他人が悲しむことなどどうでもいい。むしろ「なぜお前の悲しみを回避するためのボランティアを生きる苦しみに耐えながら俺がしなきゃいけないんだ」という気持ちになり、殺意が湧いてしまう。
 だから、どうしても誰かの自殺を防ぎたいのなら「これから毎日あなたに満足いく金額を払うから、私が支払えているうちは死なないでね」というのが正解である。彼らに「生きろ」というのは、彼らにとって何よりも過酷な労働である「人生」という行為を求めることである。つまりそこに対価を払わなくてはならない。



 なぜ人を殺してはならないのか? それは、人が殺されると周りの人が負の感情で攻撃的な行動に出始めるようになり、多くの場合においてそれが社会に損害をもたらすからである。社会においてある程度の地位を持っている人間にとって、社会の損害は個人の損害に直結する。法律を作る立場にいる人間ももれなくこれに該当するため、人を殺してはならないという法律ができるのは必然である。
 また、殺されることによって周りの人間がどの程度の強さで負の感情を覚えるかによって、社会が保障する命の重さも変わってくる。例えば、小国の独裁者を殺してもこの80億の人口がある地球上で怒る人は微々たるものである上に、むしろ殺されて喜ぶ人が大勢いる。このため、小国の独裁者の命の重さを社会は保証しない。
 これは動物の命に対しても言えることで、人間が生きるために殺すことも致し方ないと多くの人が考える家畜の命は人間にとって軽い存在である。一方、家族のように可愛がられている犬や猫の命は動物愛護法等で保護されている。全ての命が平等に尊いなどというのは、子供に世の中の基本を教える上でわかりやすさのみを重視して使われる嘘である。



 メリットがなくても友達でいてくれる人が本物の友達であるといった話を聞いた。そのような人間関係は、本当に存在するのだろうか? 困っている友達をその場でのメリットがなくても助けるのは、そいつが回復したらメリットがあるからだろう。助ける労力に対して回復した際に想定されるメリットが見合わなかったら助けないはずだ。
 友情がどうのとか、安心感がどうのとか、単純に人として好きとか、過去がどうのとか、それらも全て、心理的なメリットじゃないか。メリットないところに投資する人は基本的には存在しない。よって、本当に困った時に誰かに助けてもらいたいのなら、メリットを提供できる人だと思われるような人になる必要がある。



 子を残して親になろうなどと思える人の気が知れない。私が好きな反出生主義という思想はとりあえず抜きにしても、まず夜泣きで死にたくなるまで追い詰められる人が何人もいるじゃないか。そして夜泣きをしなくなれば、今度はこの世の終わりのように理不尽なわがままが始まる。
 しかし感情的に怒ると精神の発育に悪影響であるため、常に冷静でいなければならない。また、感情的に怒って良い義理もない。なぜなら、そのわがままも自分が産んだ責任によるものだからだ。つまり、完全に感情を捨てなければならない。
 ここまで考えが至ってもなお、親になりたいのだろうか? それならその鋼の精神を尊敬する。だが、もしここまで考えが至らず子を産んだのなら、その浅はかさは軽蔑に値する。



 実体のない綺麗事とか、こういう風に捉えたらいい(現状は何も変わらない)みたいなものが、私は大嫌いだ。勝手にそう捉えてる分には構わないが、こういうのが好きな人はそれを他人に押し付けることが多い。本当に見ていて吐き気を催す。
 それに、実際に問題を解決させるのは、問題を問題として捉えることのできるネガティブな人だ。ネガティブな人の方が、ずっと生産的だ。
 このため、私は文明の利器や科学技術以外のものには一切期待しない。私がポジティブになるのは、新しい技術が問題を根本的に解決した時だけ‬だ。‪宗教や道徳はその場しのぎに過ぎない。人間にとっての全ての問題が解決すれば、いずれ必要なくなるだろう。これに囚われて科学技術の普及による社会問題の解決が遅れるという害の方がずっと大きい。



 私はよく、思考停止による発言を激しく批判しているが、別に思考停止する権利を否定したいわけではない。思考停止した状態で「発言する事」を批判したいのである。発言するならばその内容をしっかり説明できて反論にも応じ、議論を成立させられる程度には物を考えておかなければならない。物を考えるのが面倒ならば、極力発言してはならない。発言する権利と、思考停止する権利は両立しないと私は言いたいのだ。



 生命という存在を肯定的に捉えたがる強い圧力が世の中に存在している事が私には全く理解できない。食物連鎖などという奪い合いのシステムは多くの人の倫理観を持ってすれば罪としか言いようが無い。また、生体由来の物質には粘性が高いという特徴がほぼ共通して存在するが、人間にはそのようなベタベタしたものを汚いと捉える直感が備わっている。こうした事をふまえると、生物とは人間にとって非倫理的な連鎖反応を起こす汚い有機物と言えるのでは無いか。しかしその人間も生物であるという自己矛盾。人間の価値観では無機物こそが理想であって、生物は不幸な存在であると私は思う。



 日本の宗教事情は古代ローマによく似ている。ギリシア神話と神道の類似性はよく取り上げられる話だが、排外性を持たない多神教が複数共存するという現代において実に特異なこの環境も、古代ローマに通ずるものがある。
 しかしローマではキリスト教が普及した結果、神への挑戦だとしてテクノロジーやギリシア哲学を否定するようになって文化圏が衰退して暗黒時代が訪れた。日本にも同じ過ちを犯しそうな挙動を取り始めている集団が既に存在するのが恐ろしい。
 一神教的な、根拠なく盲信して他の可能性を考慮しない姿勢がいけないのだ。歴史は繰り返すというが、それは歴史から学ぼうとしない馬鹿が多数派だからだ。古代においては庶民にとって情報の入手が困難だったから仕方がない。しかしインターネットが存在する現代において、いつまで馬鹿でいるつもりなのか。間違った情報など使い方次第でいくらでも精査出来る。面倒くさいでは済まされない。その腐った姿勢が次の世代を苦しめるのだ。馬鹿でい続けないよう努力する事は生きる権利を社会的に認められるための、最低限のマナーだと考えた方がいい。日本国憲法にも国民は民主主義を守るための努力を惜しんではならないと書いてあるでは無いか。これこそ馬鹿でい続けないようにする努力の事では無いのか。裏を返せばこれを惜しむ者への権利を日本国は認めていないとも解釈できる。実際認めなくて良いと私も思う。馬鹿でい続けたいのならば死んでしまえ!



 友情とは、集団ヒステリーが偶然利益を産む結果に至ったものを後からそう呼んでいるに過ぎない。人と人とが直接触れ合って、集団ヒステリー以外の事が出来るとは私は思わない。



 学習能力の低さは大した問題ではない。人の二倍頭が悪い人でも、人の四倍の時間をかけて考え続ければ理解できる範囲は人の二倍になる。問題なのは、ものを考えようとしない怠けた生活態度と、何も知らないくせにこれ以上学習は必要ないと無意味に思い込んでいる自惚れである。
 学習能力は低いがものを考える姿勢はある人は、アホではあっても馬鹿ではない人である。こういう人の未来には希望が残されている。しかしものを考えようとすらしない馬鹿には希望がない。潜在的な学習能力がどれだけ高くてもものを考える姿勢がない人は一生馬鹿である。これを伝えてもどうせ馬鹿は自分の事を言われている事に気付けないバイアスがかかっているためその姿勢を変えようとしない。考えない事によって生命の危機に瀕したとしてもどうせ馬鹿はその場であたふたするだけで死んでしまうだろう。こういう馬鹿の為に周りが努力するのは無駄である。馬鹿は社会は切り捨てるべきであろう。
 まぁ、逆にものを考え尽くした場合にも人生のコスパが悪い事に気が付いて自ら死を選ぶ人は多いため、それを言って仕舞えば人類全体に希望がなく、生命体という存在自体をこの宇宙から切り捨てるべきなのかもしれないが。



最近私が好きな法的概念
・街ごと罰する(血に飢えたイヴァン雷帝ができる限り多くの死刑囚を作るために考えた制度)
・二重課税(税金を払う行為に課税するのが二重課税であるため、同じ行為や商品に二回課税する事自体は二重課税ではないというアホみたいな言い訳が存在する)
・その場で裁判してその場で死刑(説明不用)
 論理構成に狂気を混ぜてくるこのシュールさが私は好きなのだが、もちろん現代社会においてこのようなものは認めてはならない、と書いておこう。でないと私の人間性が危ぶまれるので。



 値段が商品の価値という発想が私にはよく分からない。お金を払う事自体を単体で見たらそれは損をしている事になるはずだ。であれば、その商品が長い時間をかけて購入者にもたらすメリットの合計から値段を差し引いたものが商品の最終的な価値ではないのか?
 また、等価交換というのも私にはよく分からない。渡したものと受け取ったものの価値が変わらないのであれば、その人は特に何も得ていない事になる。であれば、わざわざ交換する手間を踏んだその労力の分だけ損した事になり、何もしない方がマシなはずだ。



「"みんなに"じゃなくて"あなたに"届けたい。そんな気持ちで放送しています」
朝のラジオから聞こえてきたフレーズである。なかなか素敵なフレーズだと思ったが、すぐに普段の私がこのフレーズと全く同じ行動を、全く素敵ではない形で取っている事に気がついた。というのも、私は嫌いな人に話しかけないで欲しい旨を伝える時「人と喋るの苦手なんですよね」とか「人間が嫌いなんですよ」という風に伝えている。これはまさに「"人間が"じゃなくて"貴方が"嫌いなんです。」という事である。例のラジオ番組の名前は確か「ラジオラバーズ」だったと思う。なら私は、私と同じ癖がある人を集めて「ヒューマンヘイターズ」を結成したいと思う。参加者募集中である。



 良い事をしようと思って行動するべきではない。そのように行動すると、自分は常に良い事をしているという意識になってしまうため、感謝されて当然という恩着せがましい態度になってしまう。これが行き過ぎると自分の行動が逆効果となって人を苦しめてしまった場合にも「お前のためにやったのに感謝しないとは何事か」などと理不尽な事を言うようになってしまう。この一番分かりやすい事例が被災地に千羽鶴を送りつける連中である。千羽鶴のコンテナのせいで支援物資のコンテナが遅れたり、大量の千羽鶴が届く事で避難所のスペースを圧迫したりといった形になって迷惑だったという声が現場からは多く上がっている。しかしこの話をすると、千羽鶴を折った人の気持ちを考えろとか、心を込めて折ったのだから感謝しないのはおかしいなどと言って烈火の如く怒り出す恩着せがましい連中がいる。
 冷静な判断力があればそんな自分を客観視して自らの傲慢さに気づき、戒める事が出来るかもしれないが、善意で振る舞えば必ず人のためになると誤解しているような頭の悪い人は往々にして感情的であるため、自分は良い事のつもりでやったのに嫌がられるという状態になると冷静に考える事は不可能となってしまう。であれば、元を正せば全ては「良い事をしよう」という意識で動いた事が原因なのだから、そのような意識は持たず自然体で生きる事が最善である。
 そもそも、本当の善人は善意など持たない。なんとも思わず気付いたら自然に良い事をしているのが善人である。こういう人は最初から良い事をしているつもりではないため、逆に迷惑だと言われた場合はすぐに改める事ができる。善意というものを意識してしまうのは、自分の行いが逆効果になって人が苦しんだとしても感謝を求める偽善者である。
 善人というのは生まれ持つ素質であり、善人でない者が善人になる事は不可能だ。そしてそのように試みる事は上記の理由により社会にとって有害である。善人の素質を持たずに産まれてしまった人は、諦めてエゴイストとして生きていくのが最もマシな選択である。



 道にマスクが落ちている。マスク警察が怖いからマスクをつけなければ街へ出られない。しかしマスクは売り切れている。だから誰かが落としたマスクを使う。結果、感染リスクは倍増。でもどうでもいい。周りの目が怖いだけ。これが儒教圏の人間性。同調圧力でモラルは育たない。やったふりが上手くなるだけ。



 理不尽な目に遭った時、その原因が物だったら落ち込みこそすれど腹は立たない。しかしこれが人だと腹が立つ。少なくとも物理的には脳みそを持っているはずなのに、それを使わない事によって人に迷惑をかけているというのが腹立たしくて仕方がない。頭蓋骨を叩き割って脳みそを全て吸い出し
「これでようやく人に迷惑かける権利がある状態になったね」
と言ってやりたくなる。



 自分が関わる何かに対して、健全だと思ったらそれはその時点で不健全である。人間が健全であれるわけなかろう。不健全だと認識すれば、認識できている分だけまだ健全に近い。



 「これをやれば人生が変わる」などとのたまう自己啓発本がある。実際にはいつ何時どんな環境でも必ず幸福になれるような方法論など存在せず、個人が実践できるレベルのものは特にそうだといえる。しかし自己啓発ビジネスや宗教は未だに無くなる気配がない。
 その一方で、科学技術の発展には人類全体が活用できる富そのものを増やし、これが国家によるインフラ整備に用いられる事で特に底辺層の生活レベルを底上げしてきた歴史的な実績がある。しかし新しい科学技術が生まれる度に多くの人が杞憂でそれを恐れ、なんの再現性もないくだらない宗教を優先したり、科学技術の活用を否定する自己啓発運動が起こったりする事を繰り返してきた歴史が人類にはある。
 人類が長らく求めてきた「必ず幸福になれる手段」という幻想に最も近いものを全力で否定し、絶対に幸福になれない手段を盲信して苦痛のままに死んでいく。どうも人類にはこのような性質があるようだ。やはり生きている状態と幸福である状態は二律背反なのかもしれない。





 こんな重い内容の文章をここまで読んで下さった方がいたとしたら、心の底から感謝します。もし一つでも共感できるものがあったとしたら、非常に嬉しく思います。貴方に幸あれ! 

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